日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

私は、私の相手をする。

 

 

 

 

 

 

 先週の休日に田舎で自然を相手に撮影したことは、自分にとっての「有る」を撮った気ががする。 

 なぜなら、雪に覆われた白い風景は、無理をせずともカメラを用意すれば撮らされてしまうことで、もともと心の準備はしていたし、自分にとっての核心の部分を撮り逃しさえしなければ、撮りたいものは探さずとも、そこに「有る」だったのである。 

 だけど京都に戻ればそれは用意されているわけではなく、再び日常の風景の奥底からそれを探し出さなければいけない。 でもその、それとは何なのか?  放っておけば僕の中から消え去ろうとするもの。 つまりそれは、面白いの素。 いつもの無意識を取り戻すのも時間を要するけど、考え方を変えれば、ここで一区切り置いて、次に切り替えるにはちょうど良いタイミングだ、とも言える。 

 そんなこともあって、今朝は撮影に出かけるのか、しばらく布団の中で迷ったが、溜まったものを吐き出さずにはいられないから、結局、撮影には出かけた。 

 

 

 1週間ほど前、ラジオから中島みゆき『ファイト』が聞こえてきた。 ちゃんと聞いたのは初めてだが、しんみりと聞き入った。 この人が音楽で生きていける理由は、こういうところにあるのだと、心底思えた。

 

 心に溜まったものに自分はどう立ち向かうのか? 人が生きるということは、それでしかないのかもしれない。 地を這って、自分で何とかするしかない。 時にはいいこともあるさと我に帰りながら。

 

 

 

 別に、

 この1週間に僕自身に何かがあったわけでもないが、意識を研ぎ澄まそうとすれば、日常には見えない摩擦は生まれて当然。 その反面では、盲目的に写真を信じているわけでもないから、我が身を疑うことは日常的なので、人並みに楽ではないと思っている。 それこそは日常であり、その一瞬は人生そのもの、そんな52歳である。 

 先のことは何も見えないけど、『ファーイト』ということで、この場を締めくくることにする。