日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

本腰をいれる。

 

 昨夜、TVで映画『ザ・ファブル』を、また途中から見る。 全2作とも、まだ冒頭から見たことがない。 だから物語も登場人物の関係やらも「だいたい」で見ている。 ネタバレは無視。 そんなの問題にせず、すごく大雑把。 ネタバレしてダメになる映画は、始めから面白くないのだ。

 何にせよ、『ザ・ファブル 』は面白くて、気持ちがいい。 劇中「殺す」という言葉が連発されるのは、あんまり耳障りが良くないが、もともと、ひらパー兄さん 就任は賛成である。 今朝も京阪の始発電車で枚方市を通過する時、岡田准一の顔が頭に思い浮かんだ。 

 ファンか。 ファンなのか。

 

 

 それと、岡田准一は生前のロバート・フランクに会っている。 たしか、偶然だったと雑誌で読んだ気がする。 調べればわかるけど、面倒だからやらない。  

 つまり、すれ違ったロバート・フランクに気づくことができる人。 そういう面を知ると、人の捉え方はまた違ってくる。  

 

 

 今朝は京橋駅で下車。 2度目。 先日は駅周辺をうろうろしたが、今日は駅からJR環状線に沿って、梅田をゴールに歩くことにする。 本腰を入れて大阪の街を歩きだすと、幾らだって世界は広がって、奥の深さも見え始める。 なんで、今までやらなかったのか。 思考回路が変わることは、ものすごく影響が大きい。

 

 

 歩いていくうちに、次々と姿を変える路地。 「見えた」と思えばシャッターを押す。

 撮る回数は多い反面、悶々とする自分もいる。 手癖やパターンだけの写真を撮る自分に気付くと、刺激は失われ、同時に写真に潜む「謎」も失われる。 心と身体の無意識で微妙なさじ加減を保つのはむづかしい。 百発百中など、ありはしない。  

 

  

 

 ウケ狙いもダメ。 短命で自らが馬鹿を見るような写真は欲しくない。 そんな時はちょっと、焦点をずらして対象と距離をとってみる。  

 

 

 


 自らが自らの個性という入れ物をを頼りにし始めると、そこで物事は先にはすすまなくなる。 感触でわかる。 嫌やなあ、である。

 

 文章の冒頭の話に戻るが、ファブル(佐藤) は図に乗らない。 表現する言葉はどうであれ、そういうところに映画を見る側は共感している。 擬似体験ではあるけど、そういうところにリアリティがないと、作品に価値が生まれない。

 

 

 

 自分にとっての本当に好きな映画の着地点は、そことは少し異なるのだけど、完全な境界線もまた、存在はしない。 混沌が面白いのだ、きっと。 自分の枠を決めて、そこからあとは真っ白で何も無しなんてあるはずはない。 それを忘れてしまっている。 いや、気づいてなかったのか。 目先のことに慌ててしまって、冷静さを失うともうダメ。 ああ、腰を据えないと。  勉強や。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今朝は603カットを撮る。 まだまだ、手探り状態。 そのうち何か、それらしきものが写っていたことに自らが気がつくことになるのでしょう。 

 言葉にならない、写真でしかありえない何か。