日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

迷子が落とし穴に落ちる。

 休み2日め。 出発の風景は昨日と同じ、JR大正駅から。

 

 

 

 

 駅を出て最初に出会う風景が気持ちいい。 京セラドームがあるというのも大きい。

 

 しかし同じ場所に2日めともなると、なかなか目標らしきものが見つからず、海にもたどり着くことができない。

 加えて、今日は帰ってからやることがあるから、あまり時間もなく、暇にまかせて無目的にも歩くことができない。

 

 「製作=撮影」の自由度を上げて、街中で作業に集中することは、案外難しい。 実現するためには、自らの心と身体の自由、そして家族との折り合いをつけて撮影を習慣化することが必須である。 その時間、心が解放され、作業に集中できなくてはいけないのだ。 家族には「この人は、そういう人だ」と理解してもらなければいけないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 今朝も、そんな自由を獲得した真っ只中にいながら、僕は「心の旅」の迷子になっている。 空はこんなに青いのに。 自分で作った落とし穴に、自分で落ちているのである。

 

 しょうがなく環状線に沿って歩いていると、いつの間にやら目の前には、先日書いた「市岡高校」の校舎。 どういう因果か、こういうことになるのである。 弁天町の駅は、もう直ぐらしい。

 せっかくだからと、校舎を撮影する。 無駄だとわかっていても、人生の通過儀礼なのだからしょうがない。 そうやって僕はおじいちゃんになっていくのだ。 きっと。 

 

 

 

 

 

 

 大竹伸朗みたく、 

 撮りたいという気持ちが湧いてこなくても、写真を撮る。 やる限りは、1日が無駄に終わることは決してない。 きっと何かに出会うのである。 言葉には形容できるものと形容できないものの両方に。 そこに僕にとっての写真が存在する。 

 

 

 

 

 並んだドラム缶が、囚人の整列みたい。 個人個人の色とその順番が、とてもいい。

 

 「私」の興味や楽しみを写真にする。 作品の意義や主張はひとまず後回しにして、とりあえず今日も写真を楽しむのである。