日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

考えないで、考える。

 

 昨日もいつも通りに大阪で写真を撮ったのだけど、朝の4時に家を出て、帰ったのが夜になってしまったので、もうこれを更新するのは無理な状態。 こたつを前にして知らない間に眠っている自分。 その度に頭がガックンガックンなる。

 

 

 

 午前6時半に道頓堀の戎橋に立って、どうやって写真を撮ったらいいかを撮りながら考えてみる。 何も思いつかないまま、発見も変化もない写真を撮り続ける。 悶々とする。 そう簡単に変わらないのはわかってはいるが、撮っていてそんなに気分も良くはない。 天気がすっきりしないからだろうか。

 

 

 

 一応、空は青いが、ファインダーを覗くと全体が赤っぽい。 12月3日の大阪の朝はこんな感じ。 僕は目の前の色の変化によって写真を撮らされている。 色が好みでなければ、それを写真には撮らないし、撮っても選ばない。 写真の写りが悪いのは、作品として選ぶことはない。 

 

 

 

 

 しばらく心斎橋となんばの間を行ったり来たりする。

 始めは閉まっていたなんばのお墓の門が、次に通ると開いている。 午前8時。 手応えのない撮影のわりには、シャッターボタンを押す回数は多い。

 早朝でも人が多めのミナミの街では、自分を高揚させないと写真を撮る気が湧いてこないし、逆に飲み込まれてしまう。 

 

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 コーヒーとトイレのために通りがかりのファミマに入ると、その店はB1Fの誰もいないイートインスペースの横にトイレへの通路があった。 どの店でも流れる宣伝の音声はフロアに鳴っているけど、なんばという土地柄もあって、薄気味悪い。

 男子トイレには先客がいて、待てど暮らせど一向に出てこないから、他にフロアには人がいないということで女子トイレに入ることにして(清潔だった)、何も起きないことを祈りながら用を足し、無事にそのフロアを後にした。

 

 

 撮影中のトイレやコーヒーは、それまでの集中を途切れさせるけど、反面、我にも帰る事ができる時間でもある。 そしてコーヒー飲み終えた瞬間に、自分はこの後の行く先を持ち合わせてないことに気がつくのである。 

 

 写真を撮るという行為は案外、漠然とした中身のない行為だと思える。 花だ、名所だ、電車だ、お城だ、などという具体的な目的を何も持たないことで自分にとっての創造性を掻き立てるのだけど、一歩踏み外せば一気に虚しさが押し寄せてくるかもしれないのである。 

 僕の場合は50歳を過ぎた頃から特に「どうかしてる」ので、一応深い落とし穴には落ちないで済んでいるが、人の心というものは得体が知れないものである。 

 

 ああ、何も考えまい、考えまい、考えまい・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今回の写真もそうは見えないかもしれないが、いつも通り、すべて夜明けから午前9時過ぎくらいの間に撮った写真である。 

 「朝」に撮ったからと言って、「朝」らしい写真ができるとは限らない。 とくにミナミの街は眠っていた感もないし、目覚めた感もない。 朝にこだわっったわけではない。 重要なのは、光が生みだす「色」そのものなのである。

 

 
 写真展の方、よろしく。